信行寺について
信行寺はこの地で受け継がれてきた篤いお念仏者に支えられ明応6年(1497年)に開基された真宗大谷派(東本願寺)の歴史ある寺院です。
お寺は聞法道場とも呼ばれ真宗大谷派の開祖である親鸞聖人が広められた「本願を信じ、念仏申さば仏になる(すべての人が「南無阿弥陀仏」ひとつで救われる)」という教えを伝えていく場であります。
沿革
信行寺の起源は遠く遡ること、鎌倉時代末期、時の将軍、北条高時氏に仕える長崎入道圓喜を祖先とし、孫の勘太郎は建武元年(1334年)母の勧めで出家し、本願寺第3代覚如上人の教えに帰依し了信坊と名付けられた。
子孫の太次郎は、出家するにあたり、美濃国大浦(現在の岐阜県羽島市)にあった聖徳寺にて出家し、中之坊を建立し、了栄と名乗った。
明応6年(1497年)、第8代目坤栄が本願寺蓮如上人より阿弥陀如来絵像を賜る。
天正14年(1586年)中之坊は天正の大地震により倒壊し、一宮市小信に新たに建立された。
慶長14年(1609年)中之坊は、当時の一大事業であった木曽川築堤工事において、工事の責任者である伊奈備前守忠次の宿泊所となった縁から現在の信行寺の所在地を賜り、寺を移転し「瑞岩寺」と名を改めた。
寛政9年(1797年)尾張藩主の子の戒名が「瑞厳院」であった事から同じ名を冠する事を避け改名することとなり、元々の所在地であった小信の「信」また、親鸞聖人の著書である『教行信証』より「信行寺」と改名した。
明治24年(1891年)10月28日濃尾震災が起こり、本堂以下全建物が全壊した。この時、信行寺は報恩講晨朝法要の直後で、坊守や門徒数人が本堂内に閉じ込められたが全員無事であった。
当時の御同行の篤い願いにより、わずか5年後、明治29年(1896年)には本堂・庫裏再建される。
第22代目潮風は、女子教育の重要性を感じ大正13年(1924年)境内地に文部省認可「大谷実科高等女学校」を開校、寮も完備し多数の子女を教育した。しかし時代を先取りし過ぎたこの学校は、わずか10年後の昭和8年(1933年)に閉校した。
その後は、開かれた聞法道場・文化講座・宗教教育の場として、地域とともに歩んでいる。
私たちの真宗
一、本尊 阿弥陀如来
二、宗祖 親鸞聖人
三、宗派 真宗大谷派
四、本山 東本願寺
五、別院 名古屋別院
六、お寺 信行寺
七、経典 浄土三部経(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)
八、教え 本願を信じ 念仏申さば 仏になる
九、称名 南無阿弥陀仏
十、お勤 正信偈・念仏・和讃・回向・御文