与三の火-信行寺にまつわる伝説-
江戸時代の初めの頃(約四百年前)、信行寺の前身である中之坊は小信にありました。
その門前に与三兵衛という1人暮らしの農民がおりました。
与三兵衛は大変信心のあつい者で、常に中之坊に来て寺男をしておりました。
中之坊十一世の了誓は彼をことのほかかわいがって、折りにふれては本尊阿彌如来の大慈悲を熱心に説きました。
その頃、 官命により伊奈備前守(いなびぜんのかみ)は中之坊を宿坊にして、小信・起の境で木曽川の治水工事を行っていました。
ところが小信と起の間はなかなかの難所で、了誓の弟、小信の庄屋、掛日庄三郎に命じてこの難工事の大任を勤めさせました。
しかし堰き止めては崩され、崩されては堰き止めても荒れ狂う濁流はどうすることもできず、村民を困らせておりました。
その時、与三兵衛は思いました
「私は1人者の農民で、かねてより阿弥陀如来の光明に摂取され満たされている。
この世にに思い残すことは何一つない。
仏様からいただいたこの信心があれば、生贄になる事などは何も恐ろしくない。
私がいただいた仏様の力によって築堤工事の人柱となり、礎となってやろう」と。
そこで自ら進んで志願し、人柱となることになりました。
慶長十四年(一六○九年)七月十四日、与三兵衛は称名念仏をたからかに唱えながら、濁流に飛び込みました。
工事を行っていた村民は人柱となった与三兵衛に感激し死力を尽くしました。
その甲斐あって築堤堰き止めの難工事はようやく完成しました。
備前守は工事が完成し、宿坊の中之坊を去るにあたり、中之坊の境内があまりにも狭いので、西五城中切にある築堤工事の資材置き場の跡を謝礼の意味で授けました。
そこで了誓は小信から西五城へ移転することを決め、その子の了玄が中之坊を改めて、瑞巌寺というお寺を建立しました。
しかし寛政九年、藩主が瑞巌院と名乗った為、それに遠慮し小信から移ったという理由で、瑞巌寺から信行寺に改めました。
ところが世にも不思議なことに、中之坊が西五城へ移転してから、小雨そぼふる夜になると青白き怪火が信行寺の東に流れている五ツ城川の上を、ゆきつもどりつするのが度々目撃されました。
村人達はこれを「人柱となった与三兵衛ではないか」と噂し、「与三の火」と呼びました。
里に伝わる唄に「起東の中島西に人の灯さぬ灯が見える」とはこのことです。
言い伝えによると、これは与三兵衛が御本尊の阿弥陀如来を慕って人魂となって信行寺へお参りにくるのであると伝えられています。
大正のはじめ耕地整理が完了されてから、これが見られなくなりました。
その後、昭和三十一年濃尾大橋の築梁工事の折、作業員3名が命を落とす事故がありしました。
そこで、昭和三十二年、ちょうど与三兵衛の三百五十回忌であった事から、3人の追悼の意味も込めて、濃尾大橋の北に人柱与光観世音菩薩像の尊像が建立されました。
信行寺では、今でも有志の方々と共に、与三兵衛の追弔法要を人柱観音の前で厳修しています。
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